はじめに
本書は『勉強の哲学』、『現代思想入門』に次いで、千葉雅也さんの著す入門書3冊目。これまでの著作の言葉を借りれば、センスとは何かを「仮固定」した上で、「脱構築」するとのこと。まずはセンスを「直感的にわかる」こと、と定義される。この本で語られるのはセンスの良し悪しの彼方にあるものだ。みんな違ってみんないい、ではなく人間のどうしようもなさ、翳りのある話だという。
第1章 センスとは何か
議論は「選ぶセンス」からはじまる。美術も音楽も何もない状態から作られることはなく、見たこと聞いたことがあるもの、記憶の素材から、なんとなく選び、組み合わせて変形される。買い物も「もの選び」である。
また「センスが悪い」という物言いを避け、もの選び、ものの組み合わせに自覚的ではない「センスに無自覚な状態」という表現をする。しかし意識的すぎるもの選びや作品は、かえって何かが足りない感じがし、「無意識」が必要であるという。
「上手い/下手」に対して、「ヘタウマ」という言葉がある。再現を主にする場合、ズレはミスになるが、モデルを目指すことから降りたものは「ヘタウマ」として評価される。AIの学習データが多いこと、文化資本が多いことは特定のモデルに執着しなくなり、「こなれる」ということでもある。再現志向から降りよう。
第2章 リズムとして捉える
何らかのモデルを目指すことは、意味を求めることである。しかし本書では意味よりも、ものごとがそれ自体(リズム)としてどう面白いのか、という観点が重視される。これは19世紀から広がったモダニズムの考え方だ。
宮台真司は「意味から強度へ」というフレーズで有名になったそうだ。強度とはドゥルーズの言葉で、意味ではなく「存在感」、ただそれ自体の価値をいう概念だという。「強い」ほうが良いのではなく「強弱」、今日の言葉でいう「エモい」であり、本書では「リズム」と言い換えられる。
宮台は当時「コギャル」と呼ばれていた女子中高生たちの生活に着目した。何か「意味があること」をしようとせずに、みんなでファミレスで適当にだべったり、そのときのなんとなくの空気が楽しければいいという生き方。これを「まったり」と表現したそうだ。ファミレスでの会話には波があり、テンションの上下を楽しんでいる。
リズムは音楽だけでなく、物や味(温度)にもある。「反復と差異」がリズムである。どんなことでも、デコとボコの並べ方であり、刺激をどのタイミングで出すか、そのタイミングの面白さがものの面白さであるといえる。(しかし反復あってこその差異である。)
第3章 いないないばあの原理
「センスが目覚めてくる」とは、これは何だろうとか、こんなことをして何になるんだという理屈の次元を離れて、ものを見て聞いて、そこにある要素の並びに体が反応して、そのリズムに乗って体が揺れてくるみたいな、意味がなく楽しい、つまり「強度的」なノリに入ることだという。
リズムとは生成変化のうねりであると同時に、ビート(存在と不在の明滅)である。単純化すれば刺激はひとつひとつ0/1(凸凹、図と地、出来事)であるが、実際にはディティールが複雑に絡み合い、さまざまなパラメータにわたる多重の「変化」に乗っている。マルチトラックのように。
小説などの物語では「宝物を探しに行く」(=欠如を埋める)というのが基本形式だ。途中にいろんなハードルを仕掛けることで、解決を遅らせて、読者の関心を引き留め続ける。それに特化すると、エンターテイメント的な性格の強い作品になる。それに対し、欠如を埋めることに直結しない、その脇にあるようなディティールが豊かになると、「純粋芸術」的性格が出てきて、エンタメとしてはわかりにくいものになる。ビート的にハラハラドキドキを楽しむのと、微妙な中間色的なところに分け入っていく、うねりの楽しみという二つのアプローチがどちらも重要なのだ。
何らかの対立が、デコボコがあるときに、「刺激を抑えて安定したい」というのは生物としての大きな傾向である。それと同時に、人間はそこに、「誰かがいない寂しさ」、「寂しさを埋めたい」というドラマ的何かを感じている。(人間の場合、非常に弱い状態で生まれ、長期間、生き延びて生育するために誰かを必要とする。)
遊びは、わざと不安定な状態、緊張状態を作り出して、それを反復することを楽しむことである。物語における「サスペンス」とは、意図的に作られたストレスのことであり、サスペンスは「いないいないばあ」に相当する。英語では「宙づり」という意味である。解決に至るまでが緊張状態として遅延され(宙ぶらりんになり)、小さな山が次々に発生し、そのひとつひとつに0→1の小さな解決がある。その連続と重なりがうねりを生んで、複雑なリズムになる。
「ていねいな暮らし」もサスペンス的に捉えられ、丁寧にコーヒーを淹れることはわざと目的達成を絵遅延し、その「途中」を楽しんでおり、まさにサスペンス構造だそうだ。<サウナなんか特にそうでは?>
第4章 意味のリズム
大きな意味から小さな意味へ
第4章では「意味」とは何かを考える。むしろ私たちが「意味だと思っているもの」までリズムの形にしてしまう。
ある映画に、全体としてどういう意味があるか(大意味)と問うなら、たいがいは「人を愛することが大切だ」とか「戦争はいけない」とか、その程度の単純な結論にしかならない。全体の意味がわからないと気持ち悪いというのも理解できることだが、「部分が面白ければそれで十分」という態度もありうるだろう。部分部分(小意味)を見ていくと、より複雑な、ひとことでは言えないような感覚、リズムが浮かび上がってくる。
恋人と旅行に出かけるという例を考えてみましょう。その旅行に全体としてどういう意味があったのかと問うてみると、より二人の仲が深まったとか、距離が生まれてしまったとか、そんなざっくりした感じになると思います。でも、旅の途中でお昼を食べるところを探したとき、相手の店選びに自分とは違う面白い目のつけどころを感じたとか、海を一緒に眺めていたときに共感できる場面があったとか、地元の食材の話をしていて味の好みが違うと感じたとか、何気ない発言に不思議なユーモアを感じたとか、いろいろなことがあるわけです。
p.102
芸術ではかつて「立派な大意味がないものはダメだ」というのが主流だった。ここに蓮實重彦的な「フォーマリズム」(形を重視する)が権威的な意味付づけをちゃぶ台返しにする「反抗」が一時期流行った。しかし今度はそれが権威になってしまう「ツッパリ・フォーマリズム」となってしまった。
平熱のフォーマリズムを目指すために「感動を半分に抑え、ささいな部分を言葉にする」ことが重要だ。旅行の例でも、今回の旅はよかったな、こうやって仲良くなれてよかった、という大きな感想をもったとする。しかし、よくよく振り返ると、細かいところに不安定な感じがあったり、違いに気づいたりもしている。だからダメというわけでもない。そういう複雑さを味わいとして享受する。
ひとことで言えないから、わからなかった、要するにどういう意味? ということになりがちだが、その先へとセンスを開いていくには、小さなことを言語化する練習が必要である。それは、重要とは思えないちょっとした何かでも、どうなっているかを「観察」して言語化する練習だ。
意味とは
意味とは言葉によって担われるものである。言葉が発しているもの=意味は、ただの形、つまりリズムとして捉えるような見方もできる。たとえば、「熱い」と「赤」、「血液」、「勇気」といったものは近いものとして連想的に集合をなす。その一方で、「熱い」と「冷たい」は対立、または距離が遠い関係にある。この距離はデコボコであり、グラデーションが展開していると見ることもできる。
物語では、人物をメインとして流れを追うこともできるが、オブジェクトや風景、空気感などの変化に重心を置いて、複雑なオーケストラのように物語を捉えることもできる。ディティールがどう組み合わさって作品になっているか構造を見ることで得られる感動を「構造的感動」と呼ぶ。
生物としてのサバイバルも重要なため喜怒哀楽を中心とする大まかな感動が先に来るがそれを半分に抑えよう。人間は社会的動物であると同時に、もっと自由に想像力を展開する力がある。生存に直結しない無駄を楽しもう。意味のリズムから見ることは、ミステリといったエンターテイメント小説と、いわゆる純文学作品を橋渡しすることになる。
第5章 並べること
「並びとして見る」鑑賞者、消費者の立場から「並べる」という言葉で制作の側へ橋渡しされる。
人間は予測通りだと心地よい(反復)ことをベースに、予測が外れること(差異)にも喜びを見出す。ただしこれをリズムとして面白く受け止められるには、予測誤差に耐性があることが条件となる。遊びやゲーム、フィクションの鑑賞によって、世界の不確実性を手懐けることができる。
作り手サイドは何をどう並べてもいい。映画の複数ショットの並びに対して脳が物語化を行なうように、原理的に人間はリズムを見出そうとするから。抽象化によって一見つながっていないものをつなげることができる。「波」と「都会の人混み」はザワザワ、「家」と「段ボール」は箱のように。また極論、すべてのものは「存在している」という点において共通する。
何をどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第である。その上で、面白い並びにするために「制約をかけていく」という方向で考える。
第6章 センスと偶然性
面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起きることである。このバランスが「美」と呼ばれるものとされる。美学理論では「美」と「崇高」が対比されるそうだ。崇高とは険しい山、岩石だらけの荒涼たる土地、荒れ狂う嵐の海のような、人間がそれを捉えようとしてもフレームからはみ出してしまうようなエネルギー、無秩序、壮大さがあるものだ。
差異とは予測誤差であり、予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まってくると崇高的になる。
偶然性、自由な運動性から始めるとヘタウマ的なセンスになる。こうでなければいけないというモデルに近づけようと、きっちり合わせることを目標にしてしまうと、自由がなくなって窮屈になる。センスの良さというのは「余り」である。
目指すものへの「足りなさ」をベースに考えると、それを埋めるようにもっとがんばらなきゃという気負いが生まれ、偶然性に開かれたセンスは活性化しない。何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに注目するのではなく、「とりあえずの手持ちの技術と、自分から、湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じることが必要なのだ。
第7章 時間と人間
芸術とは、時間をとることである。答えにたどり着くよりも、途中でぶらぶらする、途中で視線を散歩させるような自由な余裕の時間が、芸術鑑賞の本質だ。ラウシェンバーグの抽象絵画で説明されたように、よくわからない作品であっても、それをリズミカルな構成物として楽しむという見方がある。買い物のように途中であれこれ迷うことが楽しい。面倒でもあるけれど楽しい。不快と快の共存がある。
ベルクソンは無生物と生物を、時間がとれるか、という一貫したグラデーションで捉える。犬のお尻をペンペンと叩くとどう反応するかは、それなりに予測不能だ。しかし、ビリヤードで黄色い9のボールをペンペンと叩いたらどうなるかは予測できる。もし犬のようにその後の展開が予測不能だとしたら、9のボールをペットにできる。物質は、作用・反作用に隙間がないが、生物は「作用・反作用のカップリング」がゆるくなる。最もゆるんだ生物種が人間だ。
芸術は想像力の広がりを示すと同時に、自分には思いつかないような、ものの限定の仕方を教えてくれる。アーティストは、多すぎる可能性のなかで、作品という有限なものを仮固定する。たくさんの例を見ることで、仮固定でいいんだということがわかってくる。多様な芸術があるということに近づくと、人生の多様性を肯定できるようになる。
人間は、他の動物に比べて、非常に大きな可能性を余らせている存在であり、だから遅延を生きている一方で、やはり動物なので、目的を最短で達成しようとする傾向もある。この二つが綱引きをする。さっさと目的達成ができることが快である面もあり、他方で、まさに人間らしさとして、途中でまごまごすること、サスペンスを楽しむ面もある。サスペンスは不安、不快でありながら面白い。ラカン的享楽です。
第8章 反復とアンチセンス
作品が人を捉え、深く思考させるのは、「問題」が「問題」として提示されるから。「問題」は繰り返し浮上するもの、反復するものである。フォーマリズムによって善悪や恨みつらみといったドラマよりも、この作者はどういう感覚に敏感なのか、といった深い次元が捉えられるようになる。
作品の傾向には、その作者独特のもの、個性が表れる。個性とは、何かを反復してしまうことである。芸術は、それを作る人の「どうしようもなさ」を表す。芸術の軸足は、身体的な癖と言えるような反復の方にある。公共性に軸足があったら、こんなあり方をしてはいけない、直しなさいという話になる。公共性と身体性のどちらに軸足があるかが、エンターテイメント的なものと芸術的なものを分ける。
ほどほどのばらつきを備えたアウトプットならば、何の「問題」も持っていないAIでも生成できてしまう。重要なのは、反復の「必然性」だ。生物として、刺激の嵐のなかで、おのれの主体性を仮固定するためにその反復が必要だった、そうするしかなかった、という必然性。反復と差異のバランスという意味でのセンスの良さを台無しにすることもある「アンチセンス」。執拗なるものとしての必然性を持ちつつも、たまたまそうなってしまっているという偶然性を両義的に帯びている問題が、反復と差異のセンスを引き裂く。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。